2021.04.04
偶発とその先
雑誌やインスタなんか見てると世界中の、広くて高い天井、いい素材、いい家具、いい空間、いい建築!と憧れつつも溜め息もついたりする。僕だって好きだけど、そこで競い合ってもな、それって財力じゃん!とか。
それよりも、自分はつくったもので価値を見出したいと思う。でも、どんなものをつくりたい?
いつだったかとある作家さんにお話を伺ったとき、1mm単位、コンマ1mm単位の緻密さで仕事をしていると聞いて、なるほどだからこの仕上がりかと感動しながらも僕はそこまでにはなれないかもなぁと、そのときはすこし凹みました。だけど誰しもが必ずしもそのようにある必要があるだろうか?
僕がつくったものをみると、こんなの本当に僕がつくったのか…こんなのもう2度とつくれないよ、、と恥ずかしながら自惚れてしまうこともある反面、それはそれでどうなのだろうかとどうしようもなさに苦笑いしたりする。それもそのはずで、偶発に頼りすぎているから。
単なる偶発だけだと誰でもできそうだったり、今回だけのまぐれ当たりのような逃避や諦めをも孕んでいるような気がする。ならば、ふっと顔を出したまぐれあたりを大事に逃がさないように連発させれば、それが積み重なれば緻密さと横に並べる迫力がでるかもしれない。
リヒターの書籍には”常に計画された偶然”と書かれていて、とても腹落ちしました。リヒターの書籍は難解なので言いたかったのはそういうことじゃなかったかもしれないけれど、僕の中ではしっくりきました。
偶発的な美しさに喜びを感じるのは比較のない世界かもしれない。誰のものでもあって、自分だけのものでもあるような、それって豊かなことだなあと。僕は平面上だけで等価にしたいだけじゃなく、社会的な立ち位置というか、そういったこともフラットにしたいのか。
まず何もできなかった僕がやれることはまずきっかけを与えることだけでした。氷点下の水に衝撃を与えるとまたたく間に氷に変わっていく現象のように、まずは人為的すぎてもいいのできっかけをあたえて、成り行きに任せてみる。
初めの一点だけでも闇雲にでも打つとよい。はじまりとその周りとその結果があるだけです。
こんな作品なので、ボツになる作品もとても多いです。
と、ここまではこないだまでの話で、最近は、深緑な作品(仮称)に関してはだんだん安定してつくれるようになってきました。以前は同じものをつくることは技術的にも気持ち的にもなかなかできなかったのだけど。惰性なのか、それともこれがスタイルってやつなのか、まだわかりません。
かつて空間の延長だったもの、そこに生じた偶発を積み重ねたもの、それらそのものを更に累積させてみる。知識も技術も未熟なゆえか、それともこれが僕の性質か、今はそこにすがるのだ。