言葉とイメージ

 

「あんたのブログ読んだけどなんかネガティブやなー笑」と言われる。

なるほど文章を書き始めるときを思い出すと大抵、ああ今日もあのとき上手な言い回しで応えることができなかったなあ、といった気持ちから書き始めることが多いのだからそりゃそうかも知れない。

言葉や文章って、一度に複数は発することができないのに、立体的で複雑な伝えたいイメージを一本道で伝えないといけない難しさがあると思う。

毛糸の玉が解けていくようにするすると言葉が出てくる人たちのことを、なんて複雑なことをやってのけているのだと尊敬する。

 

 

脳にCPUやメモリーみたいなのがあるとすれば、CPUは培われたか生まれつきかはわからないけれど地頭の良さだとして、そのCPUが同じの人を比べたとき、喋りが上手な人はメモリーが大きくて処理能力が素早いのかなと思う。たくさんの情報をいっぺんに処理できる瞬発力みたいな。

そして僕は物事を言葉で説明するのはあんまり得意じゃないので、メモリーが比較的小さい類いの人間なのだろう。ノイズに取り囲まれるとくらりとしてしまう。

 

一時記憶の容量が少なくても、このような電子上の文章ならとりあえず痕跡を残しながらこねくり回せばなんとかまとまってくれる。書く前からそう思っていたから書いたというより、書いては並び替える行為そのものが考えるということなのですね。

 

いわゆる普通のことが普通にできない分、普段のメモリーに負担がかからないようにするための身の回りの仕組みや環境の構築に注力することにしてきた。それでやっとはじめて普通の人と同じスタートラインに並べる。

 

なのでこのような比較的ミニマル寄りな部屋になってしまうのだろうけれど、それでもいわゆるミニマリストに振り切らないのはどうしてだろう。これはまた今度考えてみよう。

 

 

そのおかげでたとえば写真のような、イメージをイメージのまま伝えることだったら人よりはできるようになってたりするし、その仕組みや環境の構築が人の役に立ったりするから、まあ、これでも良いのだろうか。。

それでもいつももどかしくて、あのとき言えなかった言葉を探しています。