ロウでひたひたにした和紙の透け感、質感が好きで、間仕切りなどとして部屋に取り入れてみたりしていて、当時それでウォールランプのシェードを作ってみようと思ったのは自然な流れだったのだけど、シェードと壁面をつなぐ納得のいく手段が思いつかず保留になっていました。 それから数年後、近年の作品の主な素材として石灰を扱うようになり、この素材の台座なら和紙シェードとの重量感のコントラストなどの塩梅がちょうど良いのではということで過去に作りたかったものを掘り起こしてきて生まれた組み合わせです。 たとえばイサムノグチのAKARIやペリアンのCP-1などのように、素材とフォルムの純度を保ったまま、そのような純度の高さを現代で新しさとして打ち出すことができないのかと常々憤りを感じているところですが、かといって思想などが前に出過ぎたものを新しく作るのは性に合ってなくて。 組み合わせ次第では求めているその純度はまだ表現できるのかな。 上記のよう変遷がなくして土台は石灰にしようなどとは思いつかなかったとおもう。なにを使ってどこでどうやってをがたまたま合流してきたのでした。 横から見て台形に見える形もまた、試行錯誤の中で偶然生まれたものだけど、展示中にフィルム写真で現代美術をやってる方が来られて「カメラオブスキュラみたいだ」といわれたのはなんだか嬉しかった。 鍛金したフレームにより、自身の作品に頻発するゆらいだ線も健在です。 ときどきBlumoに納品しています。
それから数年後、近年の作品の主な素材として石灰を扱うようになり、この素材の台座なら和紙シェードとの重量感のコントラストなどの塩梅がちょうど良いのではということで過去に作りたかったものを掘り起こしてきて生まれた組み合わせです。
たとえばイサムノグチのAKARIやペリアンのCP-1などのように、素材とフォルムの純度を保ったまま、そのような純度の高さを現代で新しさとして打ち出すことができないのかと常々憤りを感じているところですが、かといって思想などが前に出過ぎたものを新しく作るのは性に合ってなくて。
組み合わせ次第では求めているその純度はまだ表現できるのかな。
上記のよう変遷がなくして土台は石灰にしようなどとは思いつかなかったとおもう。なにを使ってどこでどうやってをがたまたま合流してきたのでした。
横から見て台形に見える形もまた、試行錯誤の中で偶然生まれたものだけど、展示中にフィルム写真で現代美術をやってる方が来られて「カメラオブスキュラみたいだ」といわれたのはなんだか嬉しかった。
鍛金したフレームにより、自身の作品に頻発するゆらいだ線も健在です。
ときどきBlumoに納品しています。